はじめに|「退院」は出口にならない
――病院を出て、向かう先が見えない人たち
うつ病などを病院で治療し、症状が安定すれば「はい、お大事に」と退院となる。
しかし、そこで終わって良いのか──。
退院は、ゴールではない。むしろ、 社会との再接続のスタートラインにすぎない。しかし、現実には「治療が終わる瞬間に社会のサポートが切れる」構図がある。
厚生労働省のデータでは、日本の精神病床に1年以上入院している人が約60%、そしてその中には5年以上に及ぶ長期入院者もいる。そこには、退院後の“居場所の行方”をめぐる、複雑な社会事情が隠れているのだ。
このコラムでは「病院は治療の場であって、社会の生活の場ではない」という前提から、退院後に訪れる“制度の隙間”と“人の孤独”を、リアルかつ客観的な視点から見つめ直していきます。
1|入院期間の長さが物語るもの――日本の精神医療の現状
日本の精神医療制度が抱える特有の課題はまず、入院期間の長さに現れている。
・OECD加盟国では20~30日の平均入院日数に対し、日本は100日~数百日が普通。特に長期入院者の割合が高い。
・社会復帰を前提とした退院基準ではなく、病状の安定が退院条件となるため、安定した症状を保ったまま数年間が「治療期間」とされることもある。
これは、日本が“病院中心の精神医療”を構築してきた歴史的背景にも起因している。精神科病床が多すぎる、地域でのケアが未整備、退院後の居場所がないまま治療だけ繰り返される..。そうした背景が長期入院を生んできたのだ。
しかし、退院後の暮らしは、病院のリズムに適応してきた生活の延長ではない。本来の目的は、社会の中で自分らしく生き直すことにある。そうした意味でも、日本の精神医療は、制度そのものの根本的な再設計が求められている。
2|治療のあとに待つ「空白」――制度が捉えきれない現実
入院治療は確かに人生を支えてくれる。しかし、退院したとたんに制度の中から消えていく人が多い。
制度と現実の溝が起きる構造的原因
・家族との断絶:長期入院を理由に家庭内の雰囲気が変わり、帰る場所がなくなるケースがある。
・経済的喪失:社会復帰支援があっても、仕事や収入、居住の見通しが立たない。
・地域資源の非連携:退院後の訪問看護、福祉相談、就労支援が“制度名はある、でも使えない”ことが多い。
・手続きの負担:本人にとって申請や書類手続きは重荷となり、「支援を利用しづらい障壁」として機能する。
いずれも、「制度はあるが、届かない」という状態。治療だけ終えて、生活に戻るための構造的支援が欠けている現実は、深い社会的孤立に繋がっている。
3|退院後の体感――“誰にも言えない心の揺らぎ”
私自身、18歳のときに経験した入院と退院を振り返ると、制度の支えを離れたあとに押し寄せてきたのは、“生活の中の不安”でした。
それは誰にも打ち明けられない、けれど確かにそこにある揺らぎでした。
日常が戻ってこない
「ただ家にいるだけ、なのに息苦しい」
好きだったはずの部屋、慣れ親しんだ街並み。
けれど、そこに自分が“ちゃんと存在している”感じがしない。
病院を出たのに、まだ社会のどこにも戻れていない気がする。
スケジュールの“空白”が怖い
病院では時間が区切られていたが、社会に戻ると、1日がまるごと“自分次第”になる。
何もしない自分を責め、何かしようとすると焦り、不安だけが膨らんでいく。
自分をどう紹介していいか分からない
久しぶりに会った人から「最近どうしてたの?」と聞かれると、言葉が詰まる。
“入院していた”という事実をどう扱っていいか分からず、自分の存在の説明ができない。
こうした感覚こそが、「治療」という枠組みではカバーされない“心の空白”です。
制度の視点からは見えにくいかもしれませんが、当事者にとっては、その後の人生を大きく左右するほどの、重大な局面なのです。
4|制度の継ぎ目を繋ぐもの――地域包括ケアの取り組みと課題
2017年以降、厚労省は「精神障害にも対応する地域包括ケア」の構築を進めている。
具体的な内容例:
・医療・福祉・地域をつなぐ仕組み
・退院後の訪問看護やピアサポート
・支援相談所、就労支援制度の配置
しかし、現場を見ると制度と実際の利用者との間には次のようなズレがあることが分かる:
・制度設計の目的優先 → 本人の実情にそぐわない支援内容
・情報散逸 → 紹介はあるが本人の気持ちが追いつかない
・手続きの複雑さ → 書類負担が大きく、本人が利用を断念
つまり、制度を設けるだけではなく、“いかに届けるか”が今後の日本での課題である。
5|回復とは何か――「心が“再び社会の中に浮かび上がる」体制の整備
本当の意味での回復は、病院を出ただけでは始まらない。
必要なのは、以下の要素が揃った環境である:
・居場所と役割の獲得──たとえば地域のボランティア、趣味の仲間、協働できるプロジェクトなど。
・人との接点の持続──たとえ短時間でも、「またおはよう」「またね」と言える日常の積み重ね。
・自己肯定感の回復──「私は価値がある」と思える経験の再構築。
・柔軟な社会ルール──通院日や体調に合わせて参加できる場所、社会慣習。
この4つが統合されてこそ、退院後の“再び生きる”を支える社会が完成する。
結び|「ただいま」と言える社会に向かって
退院は終わりではない。むしろ、新たな始まりとして、私たちはその人たちを迎える社会の仕組みを整える役割を担っている。
もしも、社会福祉や医療が「治療」をゴールと見なすなら、それは一部分しか見えていない。
必要なのは、退院後の孤独に光を当て、その先に立ち返る居場所を共に守ることだ。
今日この瞬間、もし“空白”に沈んでいる人がそばにいたら――
その人に「ただいま」と言ってもらえる温かな場が、どこかにあることを、少しでも増やしていきたい。